芦屋川沿いに、
70年。
戦後の復興期に始まったパン屋が、震災を越え、いま3代目を迎えています。
変わったもの、変えなかったもの、それぞれの世代のお話を。
戦後、芦屋川のほとりに。
1956年(昭和31年)、初代・武藤重太郎は、戦後の復興期に芦屋川沿いの小さな空き店舗を借りました。当時、パン屋はまだ珍しい商売。地元の小学校から「給食パンを焼いてほしい」と頼まれたことが、最初の安定収入になりました。
初代の手帳には、配合・水温・発酵時間のすべてが几帳面に書かれています。その手帳は今も三代目の手元にあり、看板の山型食パンは、いまもこの手帳どおりに焼かれています。
「派手でなくていい。
毎日同じ味を、同じ時間に焼く。
それで、十分です。」— 初代 武藤 重太郎の口癖だった言葉
パリ修行、3本柱の確立。
1970年、長男・健次は、大学卒業後すぐにフランス・パリへ渡りました。2年間、パリ12区の小さなブーランジェリーで修行。フランスパンの長時間発酵、ハード系の世界を体に叩き込みました。
1972年、父の隣で焼き始めた二代目は、すぐに新作を投入しました。十勝小豆を毎朝炊いた「つぶあんパン」、揚げたて2回提供の「カレーパン」。これに父の山型食パンを加えた「3本柱」が、今の三代屋の看板になっています。
店が、半壊した。
1995年1月17日、店舗は半壊しました。芦屋川沿いの地盤は揺れに弱く、壁が崩れ、オーブンも横倒し。営業再開まで、4ヶ月かかりました。
その4ヶ月の間、毎日、店の前まで来てくれる常連さんがいました。「いつ、また焼くの?」と聞きに来てくれる。仮設のテントで、無料でロールパンを配ったこともありました。
「あの時、毎日パンを作りに来てくれたお客さんの顔は、忘れられません。」— 二代目・武藤健次 (2014年・引退時の言葉)
地域の方からの応援で店を立て直し、5月のゴールデンウィーク明けに営業再開。再開初日、3代目(当時8歳)も店頭に立ったと、二代目は記憶しています。
東京修行5年、故郷へ。
長女・達也は、大学卒業後、東京の老舗ベーカリーで5年修行しました。下積み2年・成形担当2年・店長補佐1年。最後の1年は、本店の朝シフトを任されました。
2014年、父の引退を機に、家業を継ぐために芦屋へ戻りました。看板の3本柱は、配合も手順も変えません。一方で、新作の「あんバター食パン」「明太フランス」「メロンパン」を追加し、地元の若い世代にも届くようにしました。
三代目になって最も時間を使っているのは、仕入れ先との関係づくり。小麦は北海道江別、小豆は十勝、明太は博多、レーズンはカリフォルニア。生産者と毎月電話で話し、できれば年に一度は現地を訪ねるようにしています。
「変わらない味」が、選ばれた。
2024年、看板の山型食パンが「ひょうごの逸品100選」に選定。兵庫県知事賞をいただきました。受賞理由は、「初代の手帳どおりに、いまも変わらず焼き続けている」こと。
三代目は、賞状を初代の遺影の隣に置いています。「これは、私の賞ではなく、おじいちゃんの賞ですから」と本人。
北海道から、芦屋へ。
配合は初代の手帳のまま。でも、素材は時代に合わせて見直しています。三代目になって最も時間をかけているのが、小麦の選定です。
北海道・江別「ゆめちから」
食パン用の強力粉。タンパク質含有量が高く、湯種にしたときのもっちり感が出ます。年4回、製粉所から直送。
北海道・十勝の薄力粉
菓子パン用の薄力粉。きめ細かく、口当たりがやわらかい。クリームパン・メロンパンのクッキー生地に。
国産小麦の全粒粉
カンパーニュ・全粒粉食パン用。香ばしい風味と栄養価。三代目になってから本格導入。
北海道・十勝の小豆
つぶあん・こしあんパンの主役。皮が薄く、味が濃い。砂糖控えめでも甘みがしっかり出ます。
北海道・よつ葉発酵バター
あんバター食パン・クロワッサン用。香りの立ち方が違います。普通のバターと2種類使い分け。
瀬戸内・赤穂の塩
地元・兵庫の塩を使っています。まろやかさが小麦の甘みを引き立てます。
4代目を、見据えて。
現在、店には三代目・達也と、その息子(小学5年生)が土曜日だけ手伝いに入ります。レジ打ち、袋詰め、ときどき初代の手帳を読み返すこと。
「無理に継がせる気はない」と三代目は言います。「でも、もし継ぐ気になったら、いつでも入れるようにしておきたい。70年続いた店を、選択肢として残しておくのは、私の仕事です」。
少なく、変わらず、深く。
三代屋の、変わらない方針です。
芦屋川沿い、
3代続いた、変わらない一斤。